北原の歴史について
HISTORY
一世紀を越える歴史〜信頼され続ける理由〜
「KITAHARA」の誕生は1901年(明治34年)。
創始者の北原十三男は日本で医学を学んだ後、渡欧し見聞を広めておりましたが、『アメリカに於けるコンドクター、独逸に於けるドクター・デルゲヂヒト、即ち医師と白粉師・髪結さんの合の子の様なものの必要性を感じ』(昭和6年刊行“実際美容術”より)ハンガリー・ブタペストで美容学校を卒業しました。
帰国して開業しましたが、最初は『顔をいじる医者???』と世間の人は相手にしてくれませんでした。幾度と欧米を廻り、美容法の研究を重ね、ドイツから火傷や外傷の治療にもちいられていた当時の最先端医療器を持ち帰り、正式北原美容術を完成。また、鉛を含む白粉による鉛毒の問題が深刻になると、一早く、無鉛肌色白粉の実用化に成功、世間の注目を集め時代の寵児となりました。
創業から100年以上変わらぬ姿勢で、あらゆる肌の悩みを解決してきた実績と経験によって、「すべての年齢の方にもっとも美しい素肌を提供できるスキンケア」を完成致しました。
さまざまな効果を強調する化粧品が続々と登場し、わずかな期間で忘れさられ消えていく現実。消え去り、あるいはモデルチェンジをするということは、素肌にとって正しくなかった証拠ではないでしょうか。化粧品、すなわちスキンケアは、「合う」とか「合わない」で判断するものではありません。「正しい」のか「間違っている」か。
これが重要なのです。
沿革
明治32年 | 北原十三男 欧州各国視察に出発。 |
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明治34年 |
ハンガリー・ブダペストより帰国し、牛込にて開業。その後欧米視察を重ね、独自の美容術を完成。
東京市神田区駿河台に『正式北原美容術』専門の「東京美容院」を開設。 東京市外中野町宮前にて北原化粧品の製造を開始する一方、「日本女子美容術学校」を開校して、施術者の養成をする。また、新聞、ラジオ、講演会などを通して、美容に対する意識向上につとめる。 |
大正06年 | 6月25日 東京市神田区須田町15番地ミカド倶楽部に於いて、日本化粧品株式会社(本社所在地 駿河臺袋町9番地) 創立総会。 |
大正12年 |
北原十三男 マルセイユに滞在中、関東大震災発生。駿河台、東京美容院壊滅。 東京市神田区小川町を経て、京橋区木挽町(現・銀座)に移転。 |
大正15年 | 日本化粧品株式会社 商号登記 |
昭和20年 | 戦災の為、木挽町、東京美容院焼失。 |
昭和22年 |
東京都千代田区神田旅籠町に再建。(のち住居表示変更により、千代田区外神田1) 北原五一、代表取締役社長に就任。 |
昭和38年 | 雑誌『家庭画報』にとことんまでの美顔術灯と紹介され、第一次エステブームのきっかけとなる。 |
昭和41年 |
北原道江、代表取締役社長に就任。 この頃より、雑誌・テレビなどにも紹介され『女優の肌の駆け込み寺』とマスコミが命名。 |
平成10年 |
千代田区外神田2に新社屋完成。 1F北原美顔術、2F北原皮膚科、3F~7F日本化粧品(株)と素肌美人の為のすべてを集結。 |
平成11年 | 北原東一、代表取締役社長に就任。 |
平成12年 | 北原美顔術 創業100周年 記念式典を東京會舘にて挙行。 |
平成16年 | 北原のホームページを開設。 |
平成21年 | 大里晴子、代表取締役社長に就任。 |
平成23年 | 北原110周年の会 ~十三男、道江、東一を偲んで~ 記念式典を東京ベイコート倶楽部にて挙行。 |
平成25年 | 本社ビルサインリニューアル・本社ビル3階に北原按摩オープン |
平成26年 | 北原邦子 代表取締役社長に就任。 |
平成28年 |
北原化粧品リニューアル 創業115周年 記念式典を帝国ホテルにて挙行 |
平成29年 |
北原邦子著「北原式一生美肌メソッド」(大和出版)発売 新商品発表会 パレスホテルにて開催 ※北原石鹸N+、北原シャンプー、北原コンディショナー発売 |
北原ヒストリー
【創始者 北原十三男】
創始者 十三男(とみお)は、1899年より2年間ヨーロッパに滞在しました。
当初は、医学を学んでおりましたが、アメリカやドイツには、“医師と白粉師(おしろいし)や髪結(かみゆい)”の中間の職業が有ることに着目し、ハンガリー・ブダペストで美容を習得しました。
帰国後すぐ“美顔雪肌術(びがんせっきじゅつ)”という名称でスタートしましたが、その後、里見八犬伝の登場人物より“美容術”と名を改めました。
現在の“美容院”という名称も医を施すところが医院ならば美容を施すのは美容院という発想から命名しました。【北原化粧品】
十三男は美容術だけでなく、化粧品の研究も重ね、日本初の無鉛(むえん)肌色白粉(おしろい)の開発に成功。
毛髪用の化粧品類も多く考案し販売しておりました。【日本女子美容学校】
その当時の、婦女子の美容への意識改革と自立の為に“日本女子美容術学校”を開校。
充実した実習室を備え、技術を覚えるにはまず丁稚(でっち)奉公!の時代に極めて画期的な教育システムを作りました。【講演会で全国をまわる】
次に、十三男は全国を飛びまわり講演会を開いたり、地方にお住まいの方々にも新しく正しい美容を説きました。
新聞のコラム・ラジオ相談にも積極的に登場しました。【多彩な交友関係】
美容を通じての幅広い交遊は、歌舞伎界、宝塚、映画スターそしてエノケン、古川ロッパなど日本の芸能界はもとより、フランスのサラ・ベルナールやレオナール・フジタとも親しくさせていただいていたようです。
【趣味の世界】
何事にも興味を持ち、日本初のカデラック(キャデラック)を乗りまわし、明治45年にはオープンカーを購入、刀剣や歌舞伎俳優の隈取りの写し・日本画も収集しました。息子たちとの狩猟や、度々の洋行も自慢でした。
大正12年には、当時小学生の長女俊子をヨーロッパに同行しました。フランス・マルセーユで関東大震災を知り、浮き足立つ他の日本人を尻目に、家族の安否確認後は、悠然と旅行を続けました。【北原道江】
十三男が他界しわずか3年で二代目五一(ごいち)も他界。その後長い間道江が北原を守りました。
【トコトンまでの美顔術】
1963年家庭画報に「トコトンまでの美顔術」として大きく取り上げられたのをきっかけに、次々と雑誌の取材を受け“女優のお肌の駆け込み寺”と称されました。
“ニキビといえば北原!”が定着したのもこの頃です。【北原東一】
1998年に新本社ビルが完成。東一が2Fに北原皮膚科を開設。
北原東一 著書「誤解だらけのスキンケア」は化粧品を真っ向から否定する過激な内容で化粧品公害を解説して話題になりました。近年、台湾・中国でも出版されました。北原は、初代十三男から北原一族が信念を貫き守り、現在に至ります。
北原十三男の生涯
明治14年 |
長野県下伊那郡飯田町にて生まれる。 |
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明治32〜34年 |
医学の勉強のために、欧州留学。 医師と、今でいうところの美容家の合いの子のようなものの必要性を感じ、ハンガリーブダペストで美容を学んで帰国。 |
明治34年 | 東京 牛込にて東京美容院開院。当時は美顔雪肌術と称していた。 |
明治37〜38年 | 日露戦争出征 |
明治43年 |
『自ら施し得る美顔法』(紫明社)出版 この頃より婦人くらぶ、婦人画報、婦人世界などの婦人雑誌に頻繁に記事や連載を執筆。 またラジオ番組にも多数出演。各地を飛び回って講演も行う。 |
明治44年 |
陸軍姫路連隊長の長女(日ノ本女学校卒)安田秀子と結婚。 駿河台に移転。 この年から大正8年までの間、度々欧米に出かける。 |
大正06年 | 日本化粧品株式会社設立 |
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大正10年 | 日本女子美容術学校を中野に設立 |
大正12年 |
長女俊子を伴い渡欧。後に、その時の日記を『子供の見た欧羅巴』として出版。 マルセイユ滞在中に関東大震災が発生、駿河台の東京美容院壊滅。 |
昭和06年 | 『実際美容術』出版 |
昭和20年 | 戦火のため、当時木挽町(現 銀座)にあった東京美容院焼失。 |
昭和22年 | 千代田区神田旅籠町(現 外神田1丁目)に北原東京美容院として再開。 |
昭和30〜31年 |
内外タイムス「造化の神に挑戦する男」 日本経済新聞「女の顔と五十年」 内外タイムス「名優の顔造り師」 毎日新聞「老いらく人生」 として各1ページ全面で取り上げられる。 |
昭和39年 | 千代田区旅籠町の自宅にて死去(享年83歳) |
ロゴマークについて
弊社トレードマークは3種の神器の1つである八咫鏡(やたのかがみ)と美を組み合わせたデザインになっています。これは「女性の美をとことん追求している北原」というコンセプトで明治時代に作られ、現在まで形を変えずにずっと使い続けています。それは北原の「美」と向き合ってきた姿勢と重なり、北原にぴったりのマークと思っていただけると信じています。